【英語教育】アクティブ・ラーニングは失敗だったのか。英語科に吹き込んだ新しい風の行方。

ども、Kaiです。しばらく、その道の達人が指導するときの共通点を、それがなかったらどうなるのかを含め紹介してきました。

ついに、それらを英語の学習指導へ転換するときが来ました笑。析出された着眼点をふまえると、英語・留学・教育を掲げている当ブログとしても、今日の話題を避けては通れません。

かつてアクティブ・ラーニングと呼ばれる学習法が世を席巻した頃。アクティブ・ラーニングは失敗だったと言われることもありました。あの頃、何がズレていたのかを、今なら言語化できる気がします。

果たして、本当に失敗だったのか。今回は、そんな英語科に吹き込んだ新しい風の行方について僕の考えを書いていきます。

アクティブ・ラーニングとは何だったのか。

文科省では「アクティブ・ラーニングとは、学生にある物事を行わせ、行っている物事について考えさせること」と述べられています。その手法はというと、以下のように紹介されています。

(アクティブ・ラーニングに関する議論より)

かくして、生徒が主体的に活動を通して学んでいく方針が展開されました。今までの知識を覚える世界から、それを咀嚼そしゃくし消化する世界へ。そんな学びの拡張を掲げた新たな風を現場の先生方はどう受け取ったのでしょうか。

ここから、現場の先生に広く浸透したのは

・今までの講義一辺倒ではダメ
・今までの文法に偏り過ぎた指導ではダメ
・アウトプットを重視した授業を展開しないとダメ

こんな感覚だったのではないでしょうか。

入試のために英文法を完璧に教えきり、重箱の隅をつつくような表現を覚えさせ、複雑な並べ替えを短時間で解けるように練習させる。長文は正確に読むために精読一択。それを実現させるためには講義で教員が端から端まで教え込む。

そんな授業では不十分であると三行半みくだりはんを突きつけられた、そんな感覚だったかもしれません。

また、彼らの中で

・今までの指導を否定された
・今のカリキュラムですら終われないのに無理
・環境が追いついていない
・自分はやりたくない、関係ない

こんな考えをもった方も少なくありませんでした。

いきなりの大転換に裏切られた、もしくはプライドを傷つけられたという感情。現行の授業スタイルですら四苦八苦しているという現実。不十分な教育インフラという環境要因、単純にやりたくないとか退職間近で逃げ切りたい不協和性。

さまざまな視点が錯綜し「無理」という共通項で繋がっていました。

文科省は「現場が動きやすいように」と配慮したのか、何も具体的に明確なロードマップは示しませんでした。現場は「学ぶ意欲に溢れた生徒と、温故知新が完璧な学校でのみ通用する”理想像”が降ってきた」とてんやわんやでした。

当時のカリキュラム作成に携わった元視学官の太田氏に話を伺ったことがありますが、森を見て木を見ずといった印象で、すれ違いの溝は深いなぁと感じた記憶があります。

実際に、文科省もアクティブ・ラーニングが順調ではなかったと報告しています。

(アクティブ・ラーニングに関する議論より)

失敗原因に自分たちが入っていないところに彼らの性格が現れている気がしないでもないですが、とにかくアクティブ・ラーニングに失敗例があったことは文科省も認めるところです。

こうした現状は、場合によっては学校内部の「革新派」と「伝統派」の対立も助長することとなりました。

これについては多くの意見が飛び交うところ。あえて僕の意見を言うなれば”もっと上手くできた”という点では失敗だったと考えています。

ことわっておきますが、僕自身はどちらかと言えばアクティブ・ラーニングをの最前線を務めた人間です。

当時ロールモデルとして名を馳せた北海道函館中部高等学校へ授業視察へ行きました。6名の留学派遣への選出やスーパーイングリッシュ事業の地区代表授業などもさせていただきました。

自分でも大阪のおおとり高等学校のような教育実践校の研究発表などに参加したりと熱意マンマン。先述のとおり単身で元視学官へ対談にも伺いました。

そういう意味では、上記の現場のどの考えにも当てはまらず、前向きに、ひたむきにアクティブ・ラーニングに取り組み続けました。その上で失敗だったと考えています。

賛否ありますが、まずは成功・失敗の定義を考えなければ話が進まないので、そこから話します。ここで言う成功は「生徒が学んだ内容を活かし、さらに学びを深化させること」

一方で、失敗には「それができなかったこと」だけではなく「浸透方法を誤った」ことも挙げておきます。なぜなら僕の意見は”もっと上手くできた”という意味での失敗だからです。

達人の共通項は

・解像度が高いこと
・言語化能力が高いこと

でした。そして、解像度が高くないと本質を捉えられなくなる理由として

・文脈を見逃してしまうこと
・手段が目的と化してしまうこと

言語化能力が高くないと本質を捉えられなくなる理由として

・意図が伝わらない、浸透しない
・不必要な不文律が増える

を挙げました。

まさに、ここに全てが詰まっています。

多くの現場において、英語科の教員のアクティブ・ラーニングへの解像度は決して高くなかったでしょう。その結果、地域のモデル校の手法を消化せず、そのまま取り入れることで「うちの学校では無理」と早合点です。

当時、多くのテクニックが世に出回りました。その技法だけが先行し、「活動だらけで学びなし」「ALL ENGLISHであるべきか」など、そもそも手段であった枝葉の選択肢が目的となった議論に終止した学校も多いはず。

何が求められているのか、どういう姿が求められているのか。本校ではそれが実現できるのか。できるならなぜできるのか、どの程度の質にできるのか。どのくらいの時間でできるのか。できないならなぜできないのか。

切っても切れない入試との縁や、各校の事情がある中で、アクティブ・ラーニングの実践に向けて一体どの程度の学校がそれらを真剣に議論したのか。

今よりもDX化や業務整備が進んでいなかった当時、他の業務や雑務に追われる面々が、一体どの程度の議論をしたのか。そもそも目的が煮詰まっていない状態で導入された現場が多かったのではないでしょうか。

また、文科省に新カリキュラムを言語化する力が不足していたのは、結果が示す通りです。

本来、具体的な方向性がない分、自分たちの学校の文脈に合わせて納得解を見出す必要がありました。

しかし、実際の現場では大きな方向転換で、困惑した教員に溢れていました。我々が欲しかったのは「それで良い」と言う上からの確証だったような気がします。

責任を取るのは現場です。教員は生徒や保護者の前での失敗を嫌厭けんえんする傾向にあります。「自分たちで考えて良い」と投げられた話を、自分たちで解釈した後、それを「後押し」してくれる存在があれば、もっと浸透したことでしょう。

方針の浸透方法を誤った点こそが、僕のとなえる失敗の本意です。

付け焼き刃が力を発揮できるはずがありません。当時の英語教育は勇み足で新しいものに頼りすぎ、本質を置いてけぼりにしていたように思います。

しかしながら逆説的ではありますが、これこそが達人たる視点でもあります。彼らは現場の疑問を結果で払拭します。意思決定も明確で、やり切る力を備えているのです。やはり、そこには2つの共通項が基盤を成していると言えるでしょう。

いかがでしたか。今回は達人の共通項から、アクティブ・ラーニングを失敗という視点で科学してみました。

良くも悪くも、新しいものには摩擦がつきもの。浸透には時間がかかります。アクティブ・ラーニングから10年経った結果が、現状とするならば「知識を活用することで学びを深化させる」風土は少し根を下ろした感があります。そういう萌芽ほうがとしての意味では成功したと言えるでしょう。

しかし、文科省への不信は高まった。

現場の文脈を理解できていなかった。原点が曇った。意図は十分に伝わっていない。伝わらなければ、伝えていないのと同じ。

教育の脳であるべき文科省から、手足となる学校へのアウトプットが滞っとどこおた一連の流れが示すのは、教育に携わる我々は集合体としては達人ではなかったということです。

ただ、そこにもっと良い方法で導入できた余地が残っている以上、やはり本質を理解するための要素として、共通項は必須と思うのです。みなさんはどう考えますか:)では。

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